もう1つの自己紹介。(前田真規の半世紀)
こちらは、2016年に「NHK障害福祉賞」に応募した文章を加筆修正したものです。(残念ながら落選しました)
「人生にもう一花も二花も咲かせたい~私の今までとこれから~」
「あまり長くは生きられないと思います。」
23歳の時、風邪をこじらせ呼吸不全になり、入院した当日に意識不明になった私。
三途の川を渡りかけていた私は知るよしもなかったけど、心不全を起こしており、肝臓も鬱血して、とんでもない数値を表していたようです。
口から挿管され、主治医の「今後は人工呼吸器が必要になるでしょう。」の言葉に、両親と妹が、「呼吸器を着けなかったらどれくらい生きられますか?」と聞いた返事がこれだったそうです。
そんな私も、今年46歳を迎えることができました。
健康な人ならば、人生の折り返し地点に立ったところで、これほどの感慨深さはないのかも知れません。
しかし、私のこれまでの人生を振り返ってみた今、「これまで、よく頑張ってきたね」と誉めてあげたい気持ちと、関わって下さった全ての方々へ、心からの感謝の気持ちで一杯です。
1970年6月、私はO家の長女として生まれました。
成長するにつれて、歩き方がおかしい、よく転ぶということで、小さい頃は、父に連れられあっちこっちの病院を渡り歩いてた思い出があります。
その中の一つの病院で、小学校6年生の時、筋生検にて初めて「先天性ネマリンミオパチー」と確定診断されました。
先生から説明を受けた時、両親と私がどんな気持ちで帰ったかは全く覚えていません。
ただ、先生の、「この病気はあと10年したら、いい薬ができるかも知れません」と言った言葉だけは頭に残っています。
その後10年が経ち、父が先生に、「先生、10年経ったけど、まだいい薬はできませんかね?」と聞きました。
先生は、「まだできませんねぇ。あと10年したらできるかな」と言いました。
さらに10年が経ち、また父が先生に、「まだいい薬はできませんかね?」と聞いたら、先生は申し訳なさそうに「まだできませんねぇ」と答えたのでした。
その時、もう治らない病気だということを認識したのかどうかは、記憶にありません。
その後、まずは、アキレス腱の萎縮でバレリーナ並みにつま先立ちになっいてた足を治すため、両足のアキレス腱延長手術を受け、小学校から短大まで、ただ必死に集団生活についていくことに一生懸命でした。
短大が交通の便が悪いところだったため、高校卒業時に自動車免許を取り、学校へは車で通いました。
好きな音楽をかけ運転している時、車は私の自由な足でした。
短大卒業後の就職については、当時は特に進みたい道があったわけではなく、雇ってくれるところがあればどこでも良いと思っていました。
そんな私にチャンスをくれたのは、隣町にある、産業用ロボットを作っている会社でした。
そこで、「事務ならできるのでは?」と言われ、ちょうど桜が咲く頃に間に合うように、私は総務部経理課に就職することができたのです。
良い上司や同僚に恵まれ、私は自分のできる範囲で、会社の役に立ちたいと思って働いていました。
入社して一年が過ぎ、同じ課に入って来た新入社員と恋をし、お付き合いすることになりました。
私にとって、初めてお付き合いした男性です。
社内恋愛でしたが、彼と出会ったことで、毎日がとても充実したものになりました。
ドリカムの、「うれしはずかし朝帰り」をまさに経験したりもして、青春を謳歌していました。
会社に勤めて3年経った頃、高校生の時から進んでいた側わん症の矯正手術を受けました。
とても大掛かりな手術で、背中に30cmほどの金属の棒やボルトを入れたため、退院後の動き辛さが仕事に支障をきたし、やむなく会社を退職することに。
翌年、風邪をこじらせたことが原因で、私は体調を崩していました。
全身が重く、足も象の足のように浮腫んでしまって、今から思えば腹水も溜まっていたのでしょう。
ついには尿が一滴も出なくなり、私は母に地元の病院に連れてってもらいました。
血液検査の結果を見た先生は、「すぐ入院して下さい!」と言いました。
入院当日の夜、妹が着替え等を持ってきてくれて、ベッドサイドに座って話をしていたことまでは覚えています。
その後、妹が、「お姉ちゃん、寝ちゃったから」と家に帰って来た数分後、病院から「娘さんが急変しました。すぐに来て下さい!」と電話があったそうです。
私は眠たいから寝たのではなく、その時、呼吸不全により二酸化炭素が脳に溜まってしまい、意識がなくなっていたのです。
検温に来た看護師さんが気づいてくれたそうですが、その検温がもう少し遅かったらと思うとぞっとします。
意識が戻って目が覚めた時、私は口から挿管されていました。
口からの挿管にも限度があり、私は気管切開をしました。
呼吸訓練を頑張った甲斐があり、穴を閉じて退院しました。
ところが半年後、また呼吸不全から意識不明になってしまい、医師から「もう気管切開したままにして、呼吸器を使ったほうがいい」と言われました。
その時の先生と家族のやり取りが冒頭のものです。
私は気管切開をして退院し、夜寝る時には呼吸器を使う生活になりました。
残念ながら、お付き合いしていた彼とは、四年で終止符を打つことになり、辛い別れを経験しました。
車いすになったのは、28歳の時、家の中で転倒して右足の大腿骨を骨折したことが原因でした。
太腿に金属を入れる手術をして、その後普通ならばリハビリをして歩けるようになるのですが、私は病気の特性上、3ヶ月ギプスを巻いてる間に筋肉が衰えてしまって、歩けなくなっていました。
電動車いすに乗り、夜は呼吸器を使う生活になったものの、数年の自宅療養で私はすっかり元気になりました。
そして、一つの夢を持ちました。
それは、自宅から出て自立生活をすること。
私の介助はほとんどが母にしてもらっていて、その母に万が一何かあった時のことを考えて、他人の助けを受けてでも一人で生きてく術を身につけたいと思ったからです。
もちろん、両親は大反対でした。
「靴下も自分で履けん子が、どうやって一人暮らしするの!」と。
当時、脳性まひや筋ジスなど全身性障害の人が、ヘルパーさんやボランティアを利用しながら自立生活をする様子が、テレビでもよく放送されていました。
私は親にそれらの番組を見てもらい、出来ないことはヘルパーさんやボランティアさんに手伝ってもらえば、一人暮らしは不可能ではないと説得しました。
それと同時に、私の一人暮らしを応援してくれる人に協力してもらい、なかば強引にアパート探しも進めていきました。
アパートが見つかった時には、両親も諦めたのか、住宅改修などに協力してくれるようになりました。
アパートに荷物を運び込み、さぁ今夜から一人暮らしが始まるとなった時、ベランダで一人背を向けていた父の、寂しそうな後ろ姿に切なくなりました。
親に対して申し訳ない気持ちと、何があっても頑張っていくからねという気持ちが交錯してたのを覚えています。
一人暮らしは大変なこともたくさんありましたが、ヘルパーさんたちの支えで自立生活に自信をつけていく様子をみて、両親も安心してくれたようでした。
一人暮らしを始めて3年後、利用していたヘルパー事業所の繋がりで今の夫と出会い、短いお付き合いの中で、結婚を意識するようになりました。
もちろん、私の親は、一人暮らしをしたいと言った時より大反対!
両親に挨拶してくれた夫に、「真規と結婚するなんて甘くないぞ」と父は言いました。
夫の親は、本心はどう思っていたのか分かりませんが、「あんたが好きになった人なら」と承諾してくれ、私の両親もなんとか許してくれました。
そして、私は着ることはないだろうと思っていたウェディングドレスに袖を通し、多くの人に祝福され、私たちは結婚しました。
昼間はヘルパーさんが来てくれるけど、夜は一人で不安を抱えて過ごしていた私も、結婚して夫がいることで安心した生活を送ることができるようになりました。
結婚したのが遅かったのもありますが、夫に甘え、何もすることなく呑気に過ごしていた私は、40歳を過ぎた頃から、「私の人生これで満足できるのかな?いや、まだ私は、もう一花も二花も咲かせたい!」と日に日に思うようになりました。
そんな時、インターネットで「一般社団法人 日本ピアカウンセリングアカデミー」の存在を知り、同法人がピアカウンセラー養成講座の第1期生を募集しているのを見て、これだ!と思いました。
自分の障害を強みに変えて、同じく障害を持つご本人やご家族の相談を受けるピアカウンセリングに、私の第二の人生を賭けてみたいと強く思い、日本ピアカウンセリングアカデミーに受講の申し込みをしました。
日本ピアカウンセリングアカデミーでは、養成講座はグーグルのハングアウトを利用し、その後のお仕事もスカイプのビデオ通話を利用します。
私のように外出にも人の手を必要とする障害者が、家に居ながらにして講座を受講できたり、仕事ができるというのは、何ものにも代えがたい魅力でした。
養成講座では、座学やロールプレイで傾聴の基本を徹底的に学んだのですが、普段、周りの人から相談を受けることが多かった私も、自分の主観を入れず、人の話を丁寧に聴くことがこんなに難しいことなんだということを実感しました。
そして、日本ピアカウンセリングアカデミーの認定試験に無事合格した私は、同法人が運営するピアカウンセラーマッチングサイト「るくぴあ」に登録していただき、ピアカウンセラーとしてデビューすることができました。
今は、「るくぴあ」と並行して、私が住んでる市の事業として、月に1回、対面でのピアカウンセリングもさせていただいています。
様々なケースに対応できるよう、資格を取得したり、セミナーに参加したりして勉強も続けています。
身体障害や精神障害などをお持ちのクライアントさんの悩みを聴かせていただき、「気持ちが楽になった」「前向きに頑張ろうと思います」などと言ってもらえた時、私は仕事への大きな遣り甲斐を感じるとともに、クライエントさんの生きる力を信じ、これから歩む道が幸せであるように心から願います。
そして、ピアカウンセラーとして人生の生き甲斐を見つけた私は、さらに大きな夢を持つようになりました。
それは、ピアカウンセリングを天職とし、ピアカウンセラーとして独立開業することです。
クライエントさんの集客も、サイトの運営も自分で行い、幅広く色んな障害や難病を抱える方に対応したいと思っています。
重度な障害者でも社会に貢献し、人の役に立つことで収入も得られるロールモデルとなりたい。
そう遠くない先に、この夢を実現できるよう、今、私は種を撒き、畑を耕し、花を咲かせる準備を始めました。
遅咲きの花でもいい、きっと咲かせてみようと思っています。
そして、この夢は、夢の始まりでしかありません。これを実現し、社会に貢献できたら、その先に、まだ誰にも話してない本当の夢があります。
この先、病気の進行など不安要素もありますが、これまで色んなことを乗り越えてきたように、諦めない!
この夢を掴むまで。
*「るくぴあ」は、2017年01月末をもちまして、登録を解除させていただきました。